小山田散策①淵野辺駅~山王日枝神社

正午頃、淵野辺駅に降りる。北口に出て駅前を見下ろすと、平日の昼時とあって人は多くなく、街路のアスファルトが強い陽射しに灼かれている。この日は30度に達する真夏日で、これから歩いていこうとする北の空は抜けるような蒼天が広がっている。振り返ると南の空には雲が幾筋か掛かっている。夕方から雨予報なので、このあと南の海上から雲が湧き出してくるのかもしれない。

駅前から北東に伸びる「こと座通り」を歩いて行く。通りに沿って並ぶ飲食店と、歩道を覆う庇はすぐに途切れて住宅街を進む。10分ほど歩くと、なだらかな下り坂に差し掛かる。坂上からは前方の視界が開けて、木々の緑に覆われた丘陵地と、そこに屹立する鉄塔が見えた。これから向かう先の小山田緑地も、あの丘陵の連なりの中にある。

坂を下ると十字路があり、左折してすぐに住宅地を両隣に日枝神社の石鳥居が建っていて、短い参道の先には社殿への石段が望める。
鳥居を潜るとすぐ右に平屋建ての山王自治会館があり、この神社が山王集落の中心として機能してきたことを物語る。会館を過ぎると神輿蔵や水屋があるちょっとした広場があり、30段程の階段上に小ぶりの社殿が鎮座している。
階段の両脇は斜面になり、繁茂した灌木が葉に陽射しを浴びて社殿の姿を遮っており、それが図らずも実際より社殿が奥まっているかのような視角効果を生んでいる。
階段下には由緒を記した解説板と並んで、一株の紫陽花が紫の花房を付けていた。
階段上の社殿は平成二十五年に再建されたとのことで、かなり新しいものであるが、建材は全体に黒みを帯びた落ち着いた風合いのものが使われ、古い社の趣が損なわれないように配慮されているように思われた。

解説板によると、この社は鎌倉幕府の執権北条貞時による創建と伝えている。執権職を譲り出家した貞時が淵野辺に遊歴した折、“溝流れ入り池となり大蛇あらわれて人民を食せし”ため、高地に山王大権現を祀って、この地の御家人と思われる渕野辺伊賀守に大蛇を退治させたとのこと。
これはおそらく間近を流れる境川の水害のため、北条貞時の命で渕野辺伊賀守指揮のもと治水工事が行われたことを表しているのだろう。
その後は小田原北条氏の冀下大友義家の信仰も受け、疫病鎮静の祈願もなされたと記されている。

社殿の建つ階段上のスペースの一隅に、小さい石柱を見つけた。「大震災記念植樹」と彫られ、どうやら関東大震災の時に建碑されたらしいが、碑文の書者として「甲府聯隊區司令官 熊倉栄」とある。
なぜ淵野辺甲府連隊の司令官が?と疑問に思ったが、帰ってからWikipediaを見たところ、甲府連隊=歩兵第49連隊は前名を横浜連隊といい、連隊区は山梨県全域と神奈川県全域に及ぶとのことだった。
しかし、同項目の“司令官”の項では、1923年9月1日に発生した関東大震災前後は
“三宅廉士 歩兵大佐:1923年8月6日 -
大内幸二 歩兵大佐:不詳 - 1932年8月8日”
となっており、熊倉栄の名は無い。
おそらく関東大震災当時は三宅廉士が司令官で間違いないだろうが、それ以後木内幸二退任までの9年間の司令官職の変遷は不明であり、熊倉は震災後復興が一段落した時の司令官だったのだろう。碑面の裏に建碑年が有ればより特定できたのだが、残念ながら散策時にはそこまで気が回らず、覗いて見なかった。
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